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第2話 命を育む

作者: 酔夫人
last update 公開日: 2026-08-01 11:00:27

つわりは突然やってきた。

朝、炊き立てのご飯の匂いだけで胸がむかつき、慌てて洗面所へ駆け込む。

「実里!」

背中をさする広海の手は少しだけ震えていた。

「ごめん……」

「謝るな」

えずく実里を見つめる広海のほうが苦しそうな顔をしている。

広海は吐き気が落ち着くまで付き添い、水を用意し、額に冷たいタオルを当てる。

「病院へ行こう」

「大丈夫。赤ちゃんが元気に育っている証拠だって言われているでしょう?」

大袈裟な広海に実里は笑ったが、広海は困ったように眉を下げた。

「それでも、お前が苦しむのは嫌だ」

その日のうちに広海は屋敷の使用人を一人増やした。

新しく雇われたのは、栄養士の資格を持つ女性だった。

「つわりでも食べられて、栄養のあるものを頼む」

無茶なことを言うなと呆れる実里の隣で、広海は頭を下げる。

「みんなも、実里と子どもを頼む」

主人でありながら、使用人たちへ頭を下げる姿に実里は驚いた。

「広海、そんな大げさだよ」

「大げさじゃない」

広海は迷いなく言う。

「俺は仕事で家にいないこともある。美渚を呼んだが無理だと言われた」

「なにやってるの? 美渚も妊婦だよ」

「妊婦なら丁度いいと思ったんだが。とにかく、俺が見られない時間は彼らを頼るしかないだろう」

無茶苦茶なところもあったが、広海の心配と気遣いだと分かって実里は胸が温かくなった。

その日から食卓には、実里の体調に合わせた料理が並ぶようになった。

食べられる日はしっかり栄養をとり、食べられない日は無理をさせないように味や香りに注意が払われていた。

「これなら食べられそうか?」

それが最近の広海の口ぐせ。

優しく尋ねられるたび、実里は幸せを噛み締めた。

◇◇◇

夜になると、広海はほとんど実里の隣から動かない。

リビングには二人とも興味がないクラシック。

「違う音楽にしない?」

「今日は胎教が優先」

「昨日もだったよ?」

「毎日でも問題ない」

真面目な顔で答えたあと、自分でも可笑しくなったのか笑い出す。

「さすがに俺たちが飽きるな」

広海がスマートフォンを操作すると、クラシックからジャズに変わった。

自然と二人はソファで身を寄せ合う。

広海の手は自然と実里のお腹へ伸びる。

「聞こえているかな」

「聞こえてるさ。父親の愛情は伝わる」

あまりに真剣なので、実里は吹き出した。

「広海が演奏しているわけじゃないのに」

「それなら歌おうか?」

「それもいいけど」

実里はサイドテーブルに置いておいた本を渡す。

「読んで」

「お安い御用だ」

「それなら難易度を上げて、英語に翻訳して読んで」

「……発音が違うと指摘されて話がすすまないぞ」

少し嫌そうな広海に実里は笑う。

「ゆっくりでいいよ、時間はあるんだし」

広海は降参したように手を上げ、ゆっくりと読み始める。

「さすが留学してただけある」

「帰国子女の実里には敵わないさ」

「確かに。お父さんより下手だし」

「相変わらずファザコンだな」

父にヤキモチをやいて不貞腐れた広海に、実里は笑いながら肩を寄せる。

「広海の声は心地よくて好きだよ」

「俺も実里の声が好きだよ」

◇◇◇

「少し大きくなった気がする」

お腹へ触れながらのこの台詞。

これが広海の休日の朝になりつつあった。

「変わらないよ」

「いや、大きくなった」

「気のせいだよ」

「父親には分かる」

根拠はなんだと実里は天を仰ぐものの、嬉しそうに笑う広海を見ると本当に赤ちゃんが大きくなったような気がしてくる。

「それじゃあ、今日も見に行こう」

いつものところと聞こえた気がした。

休日には二人で赤ちゃん用品店へ出かけるのが恒例になった。

「また買うの?」

呆れる実里に、広海は気にしない。

「見るだけだ」

そう言いながら店内を一周はいつものこと。

実里を気にかけてゆっくりだが、それでも店内をきっちり一周する。

小さなベビーベッド。

哺乳瓶。

おしゃぶり。

どれも実里にはまだ|未来《さき》の話だが、広海は違うようだった。

まるで明日にでも生まれてくるかのように真剣な顔をしていた。

ふと、広海の足が止まる。

視線の先には、小さなベビー服が並んでいた。

片手に乗ってしまうほど小さな服。

広海はそっと一枚を手に取る。

「こんなに小さいんだな……」

その目は驚きと愛しさで満ちていた。

「最初はこれでも大きいくらいなんだって」

「そうか」

広海は優しく笑う。

その笑顔は、仕事で見せる厳しい表情とはまるで違っていた。

「早く会いたいな」

ぽつりと漏れた一言。

誰に聞かせるでもなく、生まれてくる我が子へ向けられた言葉だった。

その横顔を見ながら、実里は胸が熱くなる。

この子を待っている。

心から愛してくれている。

そう思うだけで幸せだった。

(でも…………)

それでも。

一つだけ、心に引っ掛かることがあった。

広海のスマートフォンが、以前より頻繁に鳴るようになったこと。

しかも決まって、夜だった。

画面を見ると、広海は少しだけ表情を引き締める。

「悪い。仕事だ」

そう言って上着を羽織り、屋敷を出ていく。

仕事だから仕方がない。

そう自分に言い聞かせる。

それでも玄関の扉が閉まる音を聞くたび、実里の胸には小さな引っ掛かりだけが残っていた。

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